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誰も自分の息子に君のような老鶏 母ドジョウを結婚相手として選んでほしくないよ。 他に若い女性はいっぱいいるんだから ドジョウは食用魚で、普段は狂暴ではありません。 しかし、産卵期のドジョウは狂暴で、人を殺すことさえできると言われています。 「老鶏 母ドジョウ」は経験豊かな女性を母ドジョウに例えています。 経験が豊かでさまざまな手を使い男性をあざむく女性のことです。
このような鶏のひっかきは読めないよ。 もっときれいに書きなさい 「鶏のひっかき」は読みにくい殴り書きのことです。 タイ語初心者にとって、タイの人の殴り書き、筆記体はとにかくきついですね。 でも、あきらめずにやっていくと、なんとなくでも「勘」で暗号のような筆記体を解読することができるようになります。
あの子は田舎から出て来たばかりの頃はあかぬけませんでしたが、 着こなしを覚えたら本当にきれいになりました。 まさに鶏の容姿は羽次第 人の容姿は着こなし次第ですね この諺は人を鶏に例えています。 鶏が羽の色次第できれいになれるのと同じように、 人は着こなしできれいになります。だから、着こなし次第で誰でもきれいになれるのです。 予備として待機している人、用のある時、いつでも呼べる人のことです あなたにとって私はただの闘鶏場の予備の鶏でしょう。 失恋して、私のところに戻ってきたじゃない。 「闘鶏場の予備の鶏」の由来は闘鶏場で闘鶏をする時の習慣から来ました。 闘鶏場にはいつも控えの鶏がいて、鶏が足りない時に使われます。 予備として控えている人を鶏に例えています。 そんなに大切ではないが、いつでも使える人のことです。 お互いに秘密や策略を知っていることです ウィチャイはソムシーが主人のお金を盗んだことを知っており、ソムシーはウィチャイが高級酒を盗んだことを知っている。お互い相手の秘密を知っているが主人に言えない。これを「鶏は蛇の足を知る 蛇は鶏の乳房を知る」という。 普通鶏には乳房がなく、蛇には足がありません。蛇は鶏の乳房を見たと言います。鶏も蛇の足を見たと言います。つまり、両方ともお互いの秘密を知っているということです。「鶏は蛇の足を知る 蛇は鶏の乳房を知る」は両方がお互いの秘密を知っていることをいいます。 物の価値が分からない人のことです
宝石は価値のある石ですが、鶏はその価値が分かりません。ですから、「鶏に宝石」は、鶏には宝石がただの石に見えるように物の価値が分からない人のことです。 夜明けのことです 友達との約束は12時ごろでしたが、彼は鶏が鳴く頃に来ていたので、友達を何時間も待たなければなりませんでした。 「鶏が鳴く頃」はよく ‘鶏が鳴く頃に起きる‘または‘鶏が鳴く頃に来た‘と冗談で使われます。鶏が普通夜明け頃に鳴くことから来ました。「鶏が鳴く頃」は夜明けや約束の時間より前という意味です。 何も考えられない、何をしたらいいか分からないぐらい途方にくれるという意味です 彼は彼女に親しげに挨拶をしたが、彼女は彼が誰だか思い出せず目をつぶされた鶏のように途方に暮れた。 「目をつぶされた鶏のように途方に暮れる」は闘鶏から来ました。闘鶏の時、鶏は相手の目を爪で刺します。刺された鶏は、目がつぶれて何も見えず、何もできなくなってしまいます。「つぶれた鶏の目ぐらい分からない」は何をすればいいのか分からない、思いつかないという状態をさしています。 浮気する男の人のことです この男の人は浮気チャボです。どこかにきれいな女の人がいたら、すぐ飛んでいって話しかけずにいられません。 チャボの雄は色がきれいです。雌鶏を見ると羽を動かしてナンパに行きます。「浮気チャボ」は雄鶏が雌鶏のところに行くことから、女の人のところに行く男の人の例えです。 朝早く起きることです ミアンばあさんは毎朝鶏より早く起きます。ご飯を炊き、食べ物を用意して、夜明けに托鉢に来るお坊さんに差し上げます。 「鶏より早く起きる」は「鶏が鳴く頃」に似ています。鶏が夜明けに鳴くことから来ています。「鶏より早く起きる」は鶏が鳴く前に起きるという意味です。「鶏が鳴く時に起きる」はそのまま鶏が鳴く時に起きるという意味です。両方とも同じ意味で夜明けに起きるという意味です。 愚かな振る舞いをすることです 彼は何もよく分からず、誰と話してもいつも鶏を放つ。 「鶏を放つ」は比較的新しい表現で、由来は分かっていません。は「ガイ」(鶏)の発音がが「ガイ」(知らないふりをする)に似ていることから来ているかもしれません。「鶏を放つ」は愚かな振る舞いをするという意味です。また、「大きい鶏を放つ」はとても愚かな振る舞いをするという意味です。 知識や能力が少ししかない人が、うぬぼれて知識や能力の豊富な人と競うことです。 みんなできのいい人ばかりだから、私はみんなと競いたくないよ。アヒルが鶏と鳴き声を競うになってしまう。 鶏やハトなどの鳥は鳴きますが、あひるは普段鳴きません。「アヒルが鶏と鳴き声を競う」は知識や能力が豊富な人を鶏に例え、知識や能力が少ししかない人をアヒルに例えています。ですから、「アヒルが鶏と鳴き声を競う」は鳴けないアヒルがうまく鳴ける鶏と競うように知識や能力が少ししかない人がうぬぼれて、知識や能力が豊富な人と競うという意味です。 種族が違うことです 今のタイ人は父はチャボ母はシャモで、純粋なタイ人はなかなか見つけられない。 「父はチャボ」は父親がチャボ、体は小さいですが、とさかが大きい鶏の一種だということを意味します。「母はシャモ」は母親がシャモ、体は大きいがとさかは小さい鶏の一種だということを意味します。つまり、「父はチャボ 母はシャモ」は父と母が違う種族だという意味です。 どこかへ行く時、後先を何も考えずに出て行ってしまうことです 行きは鶏が飛ぶように出て行くんだね。家に残された人がどんなにさびしいかも考えないで。 普通鶏は鳥のようには飛べませんが、バタバタと少し前進することはできます。「行きは鶏が飛ぶように」はどこかへ行く時、何も考えず、出て行くことだけ考える人を鶏に例えています。後に「戻ればバナナの葉に漬け魚」がつくこともあります。戻った時の食べ物を用意しておかなかったので、食器代わりのバナナの葉にほんの少し残っている漬け魚の余り物しかないという意味です。 権力の支配下にある人、抗うすべを持たない人のことです 私があなたの手の中のヒヨコでいつでも握りつぶせると思ったら間違いよ。 ヒヨコはまだ小さくて、自分で自分を守れません。「手の中のヒヨコ」は権力の支配下にある人や自分で自分を守れない人を言います。「殺すも生かすも意のままの、手の中のヒヨコ」とも言います。 お互いに物を交換することです 昨日母がカレーをたくさん作ったので隣の家のおばさんにもあげました。すると、おばさんは自分の作ったお菓子をくれました。「豚が去れば鶏が来る」ですね。 「豚が去れば鶏が来る」は、豚をあげて鶏をもらうという意味です。お互いに物を交換するという意味です。 豪華な料理 この子達は豚 茸 アヒル 鶏を食べる機会がないよ。アジとナムプリックがご馳走なんだから。 昔は豚、茸、アヒル、鶏という言葉はある薬を指したそうです。その薬は4種類の植物を煎じて作りました。ここでの豚(ムー)はヘウムーという植物を、茸(ヘッド)はシュンヘッドの葉を、アヒル(ペッド)はトンティンペッドの根を、鶏(ガイ)はマカムガイの葉のことを指していました。 何の仕事をしても辛抱できずにすぐ辞めるということです 2‐3日仕事しただけで、もうできない、やめたいと言って、彼は鶏の糞を踏むことさえできない。 「鶏の糞を踏むことさえできない」は鶏の糞を踏むという簡単なこともできない、つまり何をしても最後までやり遂げられないという意味です。また、辛抱ができないという意味もあります。 |